映像のプロなのになんでテレビ見ないの?

仕事柄、CMや映画やそういう「映像のプロ」と話すことが多い。その中の映像関係の人で気になっている発言のひとつに「最近、テレビは見ませんねえ」とか「家にテレビがないんですよ」というものがある。ボクは素直に「え?そりゃないでしょう」と思っちゃう。映像をつくることを生業としているんだから持ってないと、どうやって研究してるの?ということだ。ボク自身は数年に一度、家電屋さんでテレビを買う時なんてそりゃあもうお祭り騒ぎ。何日も何時間も吟味する。ポイントはひとつ、「キレイに見えるか」という単純明快なもの。そして、自分が手がけたものは、仕上がった時にマスモニ(マスター・モニターっていうプロ用のディスプレイで最終チェックなどで見るもの)で、繰り返し見て、さらに、オンエアで見る。そして、過去にはオンエアで見て、ちょっと気になって、自主的に修正を願い出たりしたこともある。だって、そういう仕事だから。そういう仕事のやりかたはマニアックなのかなあ。(変なのか?!) 映像をつくるひとが「テレビを見ない」と言って、何を主張しようとしているのかは分からない。お医者さんの聴診器や、大工さんのカンナみたいな感じじゃないのかな。家のテレビは大事な道具のひとつ、だよ。PCでYoutubeを見るからいい、ということなんだろうか。テレビの前に座ると「はい、今から画面を見ます」という前傾姿勢になる。それがいいのだ。ボクは、「映像の仕事」をいつでもタダで見れて、次から次へと、というモノにはやっぱりしたくない。つくったCMや映像は何年も見れて、見た人の中に「自分もつくってみたい」と思えるものにしなければ、と思いながらつくる。じゃないと、あとで振り返った時に、「あー、つかれた。」しか残らないんじゃないかなあ。できれば「あー、つかれたけど、そこそこいい仕事、したなあ」くらいにはなっておきたい。だから、映像つくってる間は、映像マニアでいたいんだよね。フランスとかだとさ、映画監督や映像作家は「芸術家」なんだよね。憧れるな、そういうの。

よろこんで手入れします。

毎朝の習慣になっていることがある。出かける時、靴を磨くのだ。もうずっと続けている。出張に靴磨きセットを持っていってるほど。ピカピカなわけではないが、15年履き続けているクツには見えないだろう。文字通り毎日履いている。正直、匂う(笑) 靴は3足程度しか持ってない。ボクの嫌いな言葉のひとつに「メンテナンスフリー」っていうのがある。メンテナンスをしなくても大丈夫、っていうことらしいが、鉄鋼職人の息子として育ったボクに「道具の手入れをする」っていうことが生活の一部であるということがDNAに染み込んでいるので、もう「手入れをしない」ということを受け付けない。クルマはその仕組みを知って、走りながら「あれっ?」を思って手を入れる。毎日、乗っていると分かるモノだ。そういう理由で、毎日乗ることにしている。バイクも時々乗って(冬場はアレですが(汗)調子を感じる。カメラもそう。ぐうってフォーカスを合わせて、バシャっていうシャッター音を聞いてみると分かるものだ。革のカバンは時々クリームをぬって磨いたりする。そういう古いものだけでもない。ノートブックのPCも地味に毎日磨く。カバンに入れて持ち歩いているものにブロアーと布がある。ホコリをとばして、磨くものだ。もう、ここまでくるとメンテフェチである。手入れがちょっとした趣味になっている。だから、メンテナンスフリーってやつはボクの趣味を無くしてしまうものなのだ。メーカーの方々、『精密なので毎日手入れをしてください。』っていうやつをどんどん作ってね。よろこんで手入れします。そして、手入れをすれば何十年も持ちますよっていう誇らしい製品をね。

大丈夫、ちゃあんと見てくれているし、感じてくれている。

先日、雑誌の取材を受けて「コマーシャル」「ブランド」「映像」の話をした。もうそろそろ、語るのはよそうかなあと思っていたけど、つい、長話をしてしまった(汗) 素直に日頃思っていることを話したんだけど、上手く伝わったかなあ。僕自身は映像とか写真でものづくりの端っこにいると思っているんだけど、その「ものづくり」っていうことに誠実に向かえば向かうほど戦略とか画策みたいな、えーっとマーケティングっていうもの(?)と相容れないんじゃないかと思うようになった。むむ、歳かな。映像に関わることが多いので映画に例えたりして。みんな映画を見るでしょう。その映画の中のほんの一瞬の芝居だとか、情景だとか、とっても繊細な表現がいつまでも心に残ったりする。元来、そのくらい繊細に人は感じてる。映像の素人だとかプロとかは関係なく、小さな変化に気がつき、何かを感じている。一方で、昨今のコマーシャルは「わかりやすく」というかけ声のもとになんだか説明してしまって、味気ない。「ブランド戦略」なんていう記事を読んで、なんだか「してやられている」感じがしてしまうと、僕のようなあまのじゃくは「その作戦には引っかからないぞ!」なんて思ってしまう。映像とかグラフィックデザインだとかそういう表現をする側はもっと、観る人を信頼したほうがいい。大丈夫、ちゃあんと見てくれているし、感じてくれている。その表現が本当にグッとくるものならば。どういう作戦で見せるかが重要なんじゃなくて、何が心に刺さるかということに精力を傾けたほうが。やっぱり、ひとはそういうものを「見たい」って思うはずなんだ、と。なんていうことを思いながら、結構いろいろと闘ってたりします。はい。あ、また語ってしまった。

大笑いしながら、冷や汗。

仕事場に大笑いの声が響く。目の前に突然現れたハードルを笑いながら冷や汗をかく。おお、なかなか居心地のいい場所ができたなあ。昨日、ボクはふとそう思った。次々にいろんな仕事が舞い込んで、次々に難題が降りかかる。まったく落ち着きがない場所なのにもかかわらず、居心地がいい。スタッフたちが難題に笑えているのがなによりいい。「どこか静かで落ち着けるような別荘みたいなの、ないかなあ。」なんて時々、ネットで眺めていたけど、いらないや。ボクは元来、根っからのあまのじゃくで、流行っているモノには見向きもしないし、こうしたほうがいいというアドバイスには従わず、大きなものや偉そうなものには理由も無く反抗する。そういうつきあいづらい性格を自ら自覚しはじめて、ものを考える場所としてひとりきりになったほうがいいだなんて思っていたけど、ふと、「いらない」って思った。外国人の友人が言ってたっけ。「欲しいものが多すぎるのは心が貧しいことの裏返し。あげることの喜びを知ると豊かになる。」なんだか、沁み渡る。ボクは44歳になった。いい仕事はしたいけど、野暮なことはしたくないとも思うようになった。中途半端な歳だ。まだまだ知らないことがたくさんあって、焦ったりしながら、一方でいつのまにか溜まってきたこともある。その「溜まり」を絞れば、いいエキスを後進に与えられるかもしれないな。ひとりで引きこもるにはまだ早いか。大笑いの渦中に身を置いて、一緒になって冷や汗をかきながら、「ふう、あぶねえあぶねえ、仕事がコケるとこだったぜえ。」なんて大笑いしよう。

次、いってみよー! (ザ・ドリフターズ いかりや長介の名言より)

去年の年末に腫瘍が見つかった。お医者さんは「とっちゃえば大丈夫」と言った。ホントのところ、夏ぐらいからうすうす気がついていた。気がついてたけど、検査のたぐいを避けて、ひとり感傷にふけることもあった。「ああ、これが最後かもな」そんな風に考えながらひとつひとつの仕事や大学の講義をしていた。いよいよ、と思い、病院へ。案の定、だった。でも「とっちゃえば大丈夫」の言葉に救われた。幸い、良性のもので転移もなく、ほんとにとっちゃえば直った。死ぬかと思ったぜ、命拾いしたぜ。そう考えたら、いつかやろうと思っていることとか、周りの目を気にしていることとかがなんだかすごくもったいなく思えた。今日は、大学の卒業式。命拾いした体験をひっさげて、今日もいつものように説教しようと思う。「ごちゃごちゃいってねえで、やってみせろ」っていう調子で。すっかり情も移ってしまったかわいい教え子達が卒業する。おそらく、午後に控えているボクのスピーチは毎年のことながら泣きじゃくってロクなことが言えなそうだ。なので、ここに書いておこうと思う。いろんなことがあったし、清々することも、後悔することもあるだろう。今日だけは許す。思い切り泣きじゃくり、愚痴をこぼして、感傷に浸れ。そして明日からは、もう次が始まる。いつまでも過去をひきずるな。いつまでも思い出に浸るな。次、いってみよー。明日からオレも次にいくぜー。