言葉

人間というのは何か足りないからがんばるんです。
不満足の状態だから、知恵が出るし成長もする。
不満足こそが知恵の原点だと思います。

原田泳幸 日本マクドナルド社長 ほぼ日刊イトイ新聞インタビューより抜粋

想像力という商売道具

デザイナーやクリエイターでプレゼンがヘタだと致命的だ。これは僕の所属する会社のデザイナーも例外ではない。緊張したり、口べただったりというのも言い訳にならない。プレゼンで相手にそのアイデアを理解してもらうかどうかで半分以上はゴールの精度は見えてくる。いくら、「GOサインをもらったら頑張ろう!」と思っていても、そのGOサインの出され方が大きく変わってくる。「いやあ、君たちはとてもいい感じだ。任せるよ!」という空気をつくれるか、はては「よくわかんないけど時間もないし、とりあえず前に進めよう」なんていう空気でスタートするかはプレゼンの空気づくりでしかない。もちろん、それだけという訳ではない。信頼というものはたった一回のプレゼンで出来上がるものではない。けれどもたった一回のプレゼンで信頼を獲得することだってできる。もちろん「口のうまいデザイナー」なんていうのもなんだか胡散臭いものだ。プレゼンがうまいということは口がうまいかどうかではないし、企画書がキレイにできているということではない。考えうるあらゆる「ツッコミ」に対して答えを用意しているかどうか、つまり、プレゼンされる側のことを想像して準備をしているかという「想像力」だと思う。どこまでいってもプレゼン後の「これからつくるもの」は未知数だ。何が起きるか分からないし、やってみなければわからないことだらけだ。だから、フルに想像力を発揮して、「できる」と思わせたいし、「やりたい」と思わせることが大切なのだと思う。冷静に毎日を観察すれば一日中何かにプレゼンされているようだ(笑)。テレビにプレゼンされたり、雑誌にプレゼンされたり、街を歩けば看板にプレゼンされたり、電話口ではきっと奥さんに晩ご飯のメニューをプレゼンされたりしているだろう。そんな時、「欲しい」とか「食べたい」だとか思ったらそのプレゼンはいいプレゼンだ。そこには大いなる「想像力」のキャッチボールが産まれている。デザイナーやクリエイターは本来「想像力」が商売道具である。商売道具はいかんなく発揮すべきだなあと毎日思う。

言葉

いいことを言う人、間違ったことを言う人、何も言わない人がいます。
何も言わない人は一番ダメ。
いいことを言う人が二番目にダメ。
間違ったことを言う人、これを私は評価する。

原田泳幸 日本マクドナルド社長 ほぼ日刊イトイ新聞インタビューより抜粋

素晴らしい意匠の博覧会2010

経験値なんていうことを「現場」ではよく耳にする。百戦錬磨の諸先輩方に言わせれば場数が質を左右するということかもしれないし、駆け出しの新人さんにしてみれば一刻も早く手に入れたいもののひとつかもしれない。経験値があるということが必ずしもプラスかというとそうでもなく、成功体験や失敗の体験などが重なると案外、チャレンジ精神を蝕むことにもなりかねない。僕自身は経験値は塩梅の見分け術だと思っている。つまり、「このへんまではギリギリまで粘って歯を食いしばっていいけど、ここを越えたら元も子もなくなる」なんていう線が見えていることなんじゃないかと思う。ちょうど人命のかかったレスキュー隊員の持っている「見きわめ」の感じのようにとらえている。デザインの現場では人命にかかわることは滅多に無いけど、質とあきらめの線は常に裏腹にそこに見える。ギリギリまで粘ることそれ自体は特に美学にはなり得ないけど、精神論的なものとつくったものの質はなんだかセットで語られることも少なくない。だからこその「経験値」だと思う。経験豊富な人が実力を誇示するための経験値はこれほどみっともない値もないけど、それを「見きわめ」として発揮した時にはきっと「匠」なんていうことに近い「感覚」があらわになる。僕はそんな髪の毛一本ほどのギリギリの線の上で格闘したいと常に思う。きっと経験値の値が増すごとにその線は細くなっていき、しまいには顕微鏡でやっと見えるくらいのできるできないのギリギリの線になるのだろうとイメージする。ストイックな世界だけど、デザインという世界は本来そういう世界なんだと勝手に憧れている。今週、「グッドデザインエキスポ」が開催される。自身も端っこで関わる一人なんだけど、デザインを生業にしている人とつくったものを「さあ、デザインを評価してください」と差し出しているものだ。たくさんの評価を待つものの中にどのくらい、そんな「線」の上で「見極められた」のかを見てみたい。直訳すれば「素晴らしい意匠の博覧会」というタイトルの会場で、ひとつでも多くのギリギリを目の当たりにして肥やしにしたいと思う。

文庫音

渋谷のHMVが閉店した。テレビのニュースで知った。かつて、ほんのちょっとレコード会社に所属したことのある輩としては、やはり、ちょっぴりさみしい。今ではすっかりiTunes Storeのトップページを眺めたり、amazonを眺めたりする「ジャケ買い」なんていうやつも、20年前は渋谷でタワーレコードとHMVをはしごして両手に重いほどCDを買い込んだ。15万円くらいしか給料をもらってないのに10万円くらいCDを買っちゃって、耳は満腹でお腹はグーグーなんていう調子(苦笑)。当時買い込んだものは今でも僕の棚に少しは残っている。そんな「ジャケ買い」という感じは今になって思えばレコードジャケットがいかに「デザインの花形」だったことかと思いめぐらす。レコードジャケットのデザインがしたくてグラフィックデザイナーを志したという人も少なくないはず。そもそも「ジャケ買い」させる力というのもすごいことだよなと思う。試聴して買うという、なんだかリスクヘッジのようなことなどナシに、いきなり「良さそう!」なんて音を買わせてしまうなんて。デザイナーとしては冥利に尽きるようなことだ。LPレコードのジャケットはさながら絵画のようであったし、レコードからCDになって小さくなっても「レコードジャケット」の地位は不動だった。もちろんiTunesなどにもアートワークというジャケットの表示はあるし、amazonにだって表示されている。でも所詮、「表示」なのだ。消えかけているものといえばレコード屋さんにCDを買いにいって、帰りの電車で我慢できずに封を開けて、中の解説や歌詞を読み込んで、家に帰ってヘッドフォンで大音量で聴きながら、ジャケットをしみじみ眺める、なんていうこと。今、本がデータになろうとしている。きっと本の装丁というデザインも「表示」でしかなくなる。僕は「表示」はやだな。表示デザイナーなんて言えばちょっと「お!」とか思うかもしれないけど。ノスタルジーの話をするつもりもないのだけれどやっぱり、気持ちのいいかたちというものはある。そういえばいつのまにが音楽がBGM化してる気がするな。文庫本を読むみたいな感じで聴きたいな、ジャケット眺めながら、なんて思います。