なぜ花を買うのか。そして、なぜ花を買わないのか。

駅前の小さな花屋を見て思ったこと。
どうして絵を描くのか。どうして文章を書くのか。どうして旅に出たくなるのか。これらの、おそらく、永遠に答えの見つからなそうな問いに、数えきれないほどの画家や作家や評論家などが見いだそうとした。「答えは自分のなかにある」や「それは永遠に見つからない」という結論に至るまで何百ページにもわたって論じてみたり、何年もかけて作品を創作したり。遡って、一般的に言う『物心がつく』という時期にその問いははじまるのだろうか。いやそれすらわからないまま、食べる、寝るといった生きていく上での必要最低限な行為とは違う、どこか”無駄”とも思えるような行為=絵を描く、文章を書く、旅をする、をし続ける。もはや、しないといられないほど。クルマをすでに持っているにもかかわらず、別のクルマが欲しくなったり。すでに仕事をしているのに、別の仕事に目移りしたり。あれだけ大きな決心をして始めたことを、割とあっさりやめてしまったり。書店に行って、本を選ぶ。なぜ、その本を手に取ったのか。お腹がすいたから何かを食べたいのだが、なぜそれを昼食に選んだのか。髪型を変えたのはなぜ? それを捨ててしまうのはなぜ? その場面で嘘をついたのはなぜ? 以前は泣かなかった映画を、また見て泣いているのはなぜ? こういうことを哲学というのであれば、哲学の先にはなにが待ち受けているのか。そうこうしているうちに歳をとっている。かつて、世界中にその名を知られたような有名人がひっそりと小さな小屋で晩年を過ごすようなことは数多い。そして思いを馳せてみる。その何も無い小屋で毎日、何を考えていたんだろう。暇をつぶすなんていうことではなく、毎日が暇で覆われている中で、いったい何を考えて朝起きて、食べて、過ごして、寝るのだろう。その中で、絵を描いたり、文章を書く、なんていうことをするのだとしたらいったいなにを創作するだろうか。それは新しいものなのだろうか、それとも過去の記憶なのだろうか。そもそも、絵を描くことになにを期待しているのか。文章を書いた先に何を期待しているのだろうか。旅に出ることにどんな期待をしているのか。出会いなんていうものが突如として起こるならば、それはどうも納得がいかない。冷静になって周りを見回せばそこいらじゅうにひとはいるのだ。その中でいう出会いだとかは何をそう言っているのか。その定義とはなにか。
そのひとをなぜ好きになったのか、なんていうこととほぼ同義語のように、なぜ花を買うのか。そして、なぜ花を買わないのか。

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