流行りモノコンプレックス

原稿を書いている時点でネットを賑わせているのがAppleの新型Mac Bookと北陸新幹線開通の話題だ。今回はそんな話題=流行のハナシ。背伸びをしたがる高校生の頃から抱えているコンプレックスがある。世の中で流行っているモノにすぐに飛びついてしまうノンポリな自分へのコンプレックスだ。FMを聞きまくっては「今ロンドンで流行ってるらしい」という洋楽をさらけ、「すげえイイね」って言ってもらうのをまるで自分が流行らしたことのように錯覚して、大喜びした。ネタが尽きそうになるとまるで仕事のように漁って必死になって探した。社会に出てからは今度は一転し、世の中の流行りモノの逆ザヤを狙って、誰も目をつけないようなカウンターカルチャーなモノを見つけ出してさらけては「へえ」なんて言われることに快感を覚えた。ついにはニューヨークに移住までして、おおよそ誰も知らないようなイーストヴィレッジの片隅のある一角に住んでいる人にしかわからないような「流行り」を持ち出して自慢げになる。ここまでくるともはや「流行」の定義はよくわからないことになっている。そうこうしてオッさんになってくるまで、いっつも頭の隅にあったのが一本筋が通ってるようなものに対するコンプレックス。流行りモノコンプレックスなのだ。仕事柄、広告のしくみだとか、ひいては流行をつくりだすしくみなんかを知ってしまってからもコンプレックスを抱えながらそれは続く。昔から流行モノに脇目もふらずにただただ自分の趣味に一貫して突き進んでいる友達なんかが必ずいて、そんなヤツがすげえカッコよく見えていた。小学校の同級生にいたなぜか相撲にハマってるやつ、中学の同級生にいたジャッキーチェンの映画しか見なかったヤツ、ベースを弾いていてジャズの話ばっかりしていた高校の同級生、黒い服しか着ない友人、最近では家業を継いでいる職人さんとか。家の隣にある老舗のテーラーのおじさんとかに会って話をすると「最近のことはよくわかんえよ。」と笑いながら話す。この一言がコンプレックスに火をつける。ああ、こんなカッコよさにもっと早く気がついていたら。と。しまいにはそういう「脇目をふらないひとたち」という流行が見えてきている。これはもう僕にとっては地獄のようなことになっている。ノンポリということを筋にしたらどうかとアドバイスされたことだってある。そんな日々を送っていたら、そういえば僕ったら映像とか写真とか音楽だとかはどこか自分のフィルターは独特なんじゃないかと思ったときがある。見えてきた一筋の光に向かって夜中に必死になってノートに書き留めて分析みたいなことして、長年のコンプレックスに決着をつけようとした。そしてまだ決着はついていない。僕は流行との戦いによって作られている。つづく。

月刊「Mac Fan」連載 “写真と文”より

おーい、みんなー!

会社のミーティングでスタッフからふとひとつの疑問が投げかけられた。

「よくみんなって言いますよね。あの『みんな』っていうのに自分も入っているのかどうか、気になるんですよね」

わたしは入ってるかも。いや自分は入れてないなあ。と即座にみんなが話しはじめた。自分もそこからぶわーっと脳みそが働き始めた。確かにそうだ。みんな、皆んな、皆様…。すかさず海外生活が長かったスタッフが英語の言葉を解説した。英語の”Everybody”には自分は入っていない、はず。もし入れるとしたら”Everybody include me.”とか言うはずじゃないか、と。なるほど、なるほど。言葉にもお国柄がしっかりでるよなあ、なんて関心しきり。それは何人なのか、どこからどこまでの人たちのことを指すのか、なんていうことはおかまいなしにとりあえず一旦くくるかたちで言ったりしている、それが「みんな」。記憶を辿っていけば小さい頃にお母さんや幼稚園の先生から「みんなで一緒に!」とか「みんなで力を合わせて!」なあんて掛け声ですっかりみんなの一員として刷り込まれてきたように思う。学校のクラス、学年、性別、同じ生まれ故郷、会社、国と、どこかでそのくくりの一員になっていることで安心したり、一方で自らそのくくりからはずれたりした時はアウトローになったような自分に酔っていたりして。すっかり40すぎなのに同じ学年だよねー。って同い年のやつを学年でいつまでもくくってたりして。そんな『みんな感』はすっかりオッさんになった今でも大して深く考えずにきている。落ち着いて見回せばこれっていろんな角度から日々論議されていることだよね。いつのまにかインターネットってこういうもんじゃないか、と思ったりしていた。そこで、ある旅のシーンを想像した。ふと見知らぬ場所に行く。はじめは行きたくて行ってみたけど、想像とはまったく違ったへき地のようなところ。動物すらいないそんな本格的に人っ子ひとりいない場所に突然身を置いたりするとおそらく寂しすぎてどうかしてしまう。少なくとも僕はそうだ。目の前には川が流れていて、よく見ると対岸には大勢の顔見知りがいて、そこに向かって「おーい、みんなー!」なんて叫んでみる。そして何人かが手を振ってくれていることで急に安心したりして。そしたら、今度は船に乗って何人かがこっちへ渡ってきてくれた。もう涙が出るほど嬉しい。そして、何人かで「みんなで家をつくろうぜ」なあんてはじまる。一軒、また一軒、集落になって、どんどんその場所は村になって、街になって。月日は流れ、そうしてまた、どこかに行きたくなってくる。なんていう想像。自分がみんなの中に入っているかどうか、ころころ変わってる気がするな。勝手だな。ああ、「みんな」ってすげえめんどくさい。でも、ほっとするな。

月刊「Mac Fan」連載 “写真と文”より

勝手なことはいいことである

FacebookだったかTwitterだったか忘れたが、たまたま見つけたある記事に目が止まった。「デザインしすぎるとお客が減る」。ECサイトでWebやアプリをリニューアルしたら売上が下がったというものだった。自分は日頃こういうこと、つまりデザインしようよと提案する立場であって、本来ならばおいおいと反論すべきところが、どういうわけか妙に納得した。ましてや自分はデザインを大学で教える立場だったりしてもはやすでにデザインを否定しにくかったりする。でも、納得しちゃったのだ。どこに納得をしたのか。減ったという事実に対して納得したのだ。話を少し変えて、ボクはいま、とある大手世界企業のデザインセンターの映像をつくっている。考えてみれば妙な話だ。デザインセンターというところはデザイナーばかりが集まった集団だ。四六時中デザインのことばかりを考え、何百というアイデアを形にしている場所だ。そのデザインプロフェッショナルのチームが外部のクリエイターに自分たちのことをデザインしてほしいと依頼している。きっと、ここに求められているのはその外からの勝手な意見だ。
『勝手な意見』
はい、なんだか、なにかをつかみそうな言葉です。そしてここで冒頭のECサイトの話に戻ってみる。デザインの手段で新しい見え方を探ろうとしたECサイトはきっと運営者たちの新しくすることで新鮮になってお客が増えると勝手に思い込み、依頼されたデザイナーは結果的には勝手に理解と解釈をしてデザインし、お客さんたちは勝手に変えられたことに離れていった、こんな流れなんじゃないだろうか。揃いも揃ってみんな勝手なんだけど、間違ってはいなかったはずなのに、勝手に変えられてしまった、と思わせてしまったところがなんとも歯がゆい感じになる。ここまで読ませておいてなんなのですが、この話にオチはない。ああ、みんな勝手だなあと思いました。という話。しかし、面白いことにそんな「勝手」があるから経済が成り立っている。かってに欲しいと突然言いだしたり、変えたいと言い出したり、飽きたり。当然である。欲しいと思うことにいちいち許可をとることでもないわけだから、勝手に気分をコロコロと変えているのは自然なことだ。そしていろいろと変えたり、新しく生み出すことを生業とするデザイナーが勝手なことをやめたりしたら、それはもはや作業に近く、作業というのはそのうち機械に置き換わってしまうのが世の常だったりする。ECサイトがお客が減った、ここで大切に読み取るべきは、離れなかったひとたちのこと。勝手に新しくして、お客が減ったことに目くじらを立てて、だから変えなければよかったのに、なんて言っているひとがいたら、あっかんベーって舌をだせばよい。減ったのではない、ふるいにかけたのだと胸を張ればいいのだ。Macとかで日々デザインなどと格闘しているみなさん、胸をはって、勝手にデザインして、どんどんふるいにかけましょうよ。そして残ったものにはきっと福があると思うよ。根拠ないけど(笑)

月刊「Mac Fan」連載 “写真と文”より

プロジェクションマッピングというカテゴリ

2日間で5万2,000人の動員。10月11日と12日に金沢で行われた金沢城プロジェクションマッピングが残した数字である。Apple Storeの新製品発売の行列に引けをとらないどころか、ちょっとしたパニックと言えるほどの行列がお城から街のほうまで伸びた。開催1日目には予想以上の観客が殺到し、警察が出動し、入場規制せざるを得ない事態になり、たくさんの方々に残念な思いをさせてしまった。いち関係者として心よりお詫びしたい。製作者としては申し訳ないと思う反面、うれしい悲鳴だったというのも正直ところではある。自身は総合監修という贅沢な立ち位置からこの騒動を眺める幸運に恵まれた。なんとも響きのいいポジションに見えるけど、実際のところは重箱の隅をつつく係のようなものだ。さて、冷静になって考えれば「プロジェクションマッピング」なんていう思い切り技術用語のような名称が、子供からおじいちゃんまで広く知れわたっていることに驚く。それが建物に投影する大きな映像、という認識がきちんと伝わっている。ビルなどへのものもあるが、お城とかになればそれはそれは幻想的かつスケール感のあるものに違いない、というのを説明なしに広めることができているのが、驚きなのだ。ここ10年くらいの中では映像業界ひさびさのヒットなのだ。東京駅のものや、福島県の鶴ヶ城のもの、海外でも活発に行われた。最先端の映像が好きな人たちはすでにもう「古いもの」になっているかもしれない。でも、そこはひとつ映像人としては大きな功績に拍手を送りたい。だって、新しいカテゴリが生まれたから。できることなら一過性のものではなく、いつか「名作」なんていう風に人々に語り継がれるようなものがあってほしい。まるでオリンピックの開会式のように「あの時のプロジェクションマッピングはすごかった」と。

言葉

普通はね、何が自分にとって一番大切か、気づくことは難しい。それを無くす前に気づくことができればラッキーだ。でも多くの人は無くしてしまってから気づくもんでしょう。身近にあるときはわからない、失ったとき初めてその大切さに気づく。しかもそれがその人にとって一番大切なものだったりするから始末におえないんですよ。
佐久間為久 ドラマ「やまとなでしこ」より

ソーシャル

毎年、いくつかの審査員をやる。ああ、歳をとったんだなあ、なんて遠い目をしながら(苦笑) その中で審査を通過すると助成金がでるコンテストの審査をしたりする。その助成の意味をハゲるほどに考えて、背景を調べて、審査に臨む。そして、いざ、審査となる。ここで毎回、げんなりするくらい助成をはき違えた応募と対面する。もうイライラするほどに。まるで仕事を受注するためのコンペのような企画書もある。しかも、企業の広告の大きなキャンペーンのコンペのような厳しさはなく、つまり、審査する側をナメている企画書だ。助成っていう文字をまじまじと読んでほしい。読んで字のごとく、である。いい歳をしたひとが仕事欲しさに応募するものでもないし、思いつきのことを自分の懐を傷めずにやるためにもらうお金という意味でもない。助成の「成」の字に込められているものを考えるといい。正論を言えばそのお金は「将来」なのだ。そこに期待されていることや、求められる成果というものはずっとずっと重く、そして長い時間をかけて到達するようなものだ。その将来は自分だけのものではなく、自分のまわりを幸せにするものなんだ。そして僕はその助成を運営するかたに素朴な質問をしてみた。「こういう助成を受けて、そして一定の成果をあげて、そして、おかげさまでなんとかやっています。なんて挨拶にくるひとってどのくらいいますか?」と。皆無だそうだ。ソーシャルソーシャルという世の中の「流行」に思い切り乗っかって、声高に叫ぶ割には、本当の「ソーシャル」というものには気がついていない、という体だ。なさけない、とも思った。この状況がなさけない。僕の中でのソーシャルははっきりしている。「つきあい」だ。ただ、メッセージや写真をやりとりしているのは「通信」であって、ソーシャルとはほど遠い。昭和感バリバリの僕がきっぱりとお勧めするソーシャル。年賀状を書け!地域の集まりに出ろ!お世話になったひとにお歳暮を贈れ!お墓参りをしろ!上司と飲め!お世話になったひとに顔を見せろ!なのである。もはやこのおっさんなに言ってんだと石を投げられそうだけど、紆余曲折、ここにたどり着いたというわけだ。そんな自分も流行に乗っかってるし、海外でも暮らしたし、あらゆる新しいものに片っ端に首を突っ込んだし、大きくて偉そうなものにはとことん刃向かった。そして、我に返り、「つきあい」なんていうものについて考えさせられる。審査や助成なんていうものに「そこからはじまるつきあい」なんていう空気を漂わすことができたら、とても素敵なことになるだろうに、はて。と。

時間のテイスティング

近しいひとにはうすうす感づかれてますが、今年は映像を全然つくってない。珍しい状況を積極的につくった。飽きたとかじゃない。深くものをつくりたいから、今まで読もうと思ってほったらかしにしていた本とか、行こうと思って行かなかった場所とか、そういうことで時間を味わう。さすがにもう興味がないものと興味があるものが白黒はっきりしてきた年齢にさしかかって、焦ってるのだ。焦ってるのにやらない。いや、正確には焦ってるからやらないのだ。もう、駄作をつくっている時間はないのだ、と心底思うようになってきた。FacebookやTwitterで時々見かける「これ、すごいぞ!」みたいなアート作品や映像、写真にも正直うんざりしはじめている。一瞬、なんとなーく「いいかも。。」なんて思ってしまう自分のブレた感覚にだ。理由もなく「こうだ!」と思い込んでいたものを片っ端から疑ってみることにした。誤解されるといけないのだが、仕事をサボっているわけではない。たぶん(汗) 長距離をクルマで移動しながら頭の中ではまるでサーカスのように次々になにかが現れている。ひやひやするものとか、笑えるものなんかがまさに次々に。家や仕事場に居れば鈍く漂っていたようなものを見つけることにハマっている。ブックマークしていたWebサイトはいつのまにか見なくなり、タイトルだけ見てもなんだか思い出せないもの。はじめの数ページしか使わずに放置のままのノートブック。勉強しようと大人買いした分厚い本。勢いで購入したけど捨てられずに、かといってじっくりと眺めることのなかった写真集。練習するはずだった楽器。それらそれぞれにいくばくかの思いがあるけど、特に考えることをしなかったツケが「流れていってしまった時間」となって、もはや何も残っていない気がした。きっとアラフィフなんてそんなもんなんだろう、ともおもいつつ。時間を「どう使うか」なんてセコい考えは捨てて、時間を「どう味わうか」と考えてみたらおのずと、いろいろと頭に浮かんできた。ダシが効いている時間、とか、シンプルに塩味で素材の味がする時間だとか。そんな風にしていたら、ほうら、見えてきた。っていう気がしてる。

なぜ花を買うのか。そして、なぜ花を買わないのか。

駅前の小さな花屋を見て思ったこと。
どうして絵を描くのか。どうして文章を書くのか。どうして旅に出たくなるのか。これらの、おそらく、永遠に答えの見つからなそうな問いに、数えきれないほどの画家や作家や評論家などが見いだそうとした。「答えは自分のなかにある」や「それは永遠に見つからない」という結論に至るまで何百ページにもわたって論じてみたり、何年もかけて作品を創作したり。遡って、一般的に言う『物心がつく』という時期にその問いははじまるのだろうか。いやそれすらわからないまま、食べる、寝るといった生きていく上での必要最低限な行為とは違う、どこか”無駄”とも思えるような行為=絵を描く、文章を書く、旅をする、をし続ける。もはや、しないといられないほど。クルマをすでに持っているにもかかわらず、別のクルマが欲しくなったり。すでに仕事をしているのに、別の仕事に目移りしたり。あれだけ大きな決心をして始めたことを、割とあっさりやめてしまったり。書店に行って、本を選ぶ。なぜ、その本を手に取ったのか。お腹がすいたから何かを食べたいのだが、なぜそれを昼食に選んだのか。髪型を変えたのはなぜ? それを捨ててしまうのはなぜ? その場面で嘘をついたのはなぜ? 以前は泣かなかった映画を、また見て泣いているのはなぜ? こういうことを哲学というのであれば、哲学の先にはなにが待ち受けているのか。そうこうしているうちに歳をとっている。かつて、世界中にその名を知られたような有名人がひっそりと小さな小屋で晩年を過ごすようなことは数多い。そして思いを馳せてみる。その何も無い小屋で毎日、何を考えていたんだろう。暇をつぶすなんていうことではなく、毎日が暇で覆われている中で、いったい何を考えて朝起きて、食べて、過ごして、寝るのだろう。その中で、絵を描いたり、文章を書く、なんていうことをするのだとしたらいったいなにを創作するだろうか。それは新しいものなのだろうか、それとも過去の記憶なのだろうか。そもそも、絵を描くことになにを期待しているのか。文章を書いた先に何を期待しているのだろうか。旅に出ることにどんな期待をしているのか。出会いなんていうものが突如として起こるならば、それはどうも納得がいかない。冷静になって周りを見回せばそこいらじゅうにひとはいるのだ。その中でいう出会いだとかは何をそう言っているのか。その定義とはなにか。
そのひとをなぜ好きになったのか、なんていうこととほぼ同義語のように、なぜ花を買うのか。そして、なぜ花を買わないのか。

言葉

Man will err as long as he shall strive.
人間は、努力を続けるかぎり、つまずくものだ。(ゲーテ 『ファウスト』より)

ものづくりバカ

スティーブ・ジョブズが残してくれたものの大きなひとつにキーノート・スピーチがある。今ではTEDなど、プレゼンテーションそのものがショーになって、それをみんなで聴いて「うん、うん」と楽しむほどになった。自身はついつい、職業病のようにまるでイベントの主催者のような気持ちでそれらを見てしまう。あ、スライドの作り方がうまいなあ、とか、言葉の選び方が絶妙だなあ、なんていう具合に。そして、少しずつその舞台に違和感を覚え始めた。その違和感はしごく素直なものだ。「話が上手すぎる」と。またここで昭和的職人気質のものづくりの姿勢、うんぬん、を持ち出すわけではないけど、ボクの中での「ものをつくっているひと像」というのはそれはそれは不器用なひとのイメージだ。会話はしどろもどろ、敬語や丁寧語もイマイチ。得意な分野の質問に対しては堰を切ったように専門用語を駆使して唾を飛ばしながらマシンガン・トークをする。そんなイメージがある。ここ数年で爆発的に増えた感のあるスピーチを見る(ん、聴く?かな) 場面で、はじめのうちはつまらなそうな題材を、楽しく魅せてくれているということに新鮮さを感じたりもした。舞台は年々アップデートし、大きなスクリーンに洗練されたスライド、映像、照明。さながらアーティストのライブのステージのようだ。見終わった後、たしかに「ああ、楽しかった」という感想が残る。しかし、しかしだ。ボクには残ってしまったのだ。違和感が。不器用さ、はどこへいってしまったの? ああ、不器用なものが見たいんだよ!と。冷静になってみれば、歴史の中の名スピーチと言われるものはたくさんある。リンカーン、キング牧師、などなど。そのラインナップにスティーブ・ジョブズが入っていても納得。それらを見てみると、決して上手ではない。むしろ不器用なくらい無防備に言葉を発しているように思う。きっと感じている違和感の種は「本心かどうか」だ。おそらくはそのひとの発する言葉とはこれまでに蓄積してきた本人が選んで残しておいた言葉のはずだ。それを無意識に近く、高揚しながら発している。もともとひとはそんなに器用じゃない。どこかが優れていてもどこかが抜けている。ものをつくる職業を天職としてやっているひとはなおさら不器用でもおかしくはない。「それしかできないひと」として価値を発揮しているからだ。だから不器用な言葉を発し、しかしそれに聴衆は感激する。見回せばクリエイターやデザイナーがたくさんの本を執筆している。隙がないほどに洗練された言葉とともに、世界観へと導いていく。たしかに美しい言葉だったりするし、いやな思いをするような言葉は見当たらない。しかし、純朴ではない。どこかに計算や戦略を感じてしまう。ズバリ言えば、計算ではひとに響かないんだと思う。
ものづくりバカは、不器用でいい。不器用バンザイ!なんだ。

月刊「Mac Fan」連載 “写真と文”より